■医療事故■
医療事故と過失の概念について解説し、最近の医療訴訟の傾向を例を挙げて分析しました。

 1. 言葉の定義

 医療事故を語る時、その言葉の定義は正確でなければなりません。医療事故とは、患者の疾患そのものではなく、医療行為によって患者に傷害が引き起こされた出来事を意味しています。さらにこの出来事は「過失による事故」と「過失のない事故」に分けられます。マス・メディアでよく使われる「医療ミス」、あるいは「医療過誤」とは前者の「過失による事故」と同義に使われていると思われますが、正確には過失が証明されてなければ単に「医療事故」と記述すべきです。

 この過失があるかどうかという判断は、必ずしも容易につけられるものではありません。例えば、人工心肺装置の誤作動で患者に脳障害が起こったとか、患者を取り違えて、別の手術を行ってしまった、などは明々白々な過失です。一方、血管の縫い合わせ方が微妙にずれたために血流が途絶えたり、出血を生じたりして、それがさまざまな過程を経て最終的に死亡に至った、などという場合があり、果たして客観的に過失を証明できるかは微妙な問題です。この場合、外科医本人がその職人としての良心に従って、過失かどうかの判断を自らに下すべきであり、それが医療倫理というものだと思います。

 また他方、いつも通りの手技で何の問題もなく終わった患者さんが、脳梗塞を起こしたり縦隔炎を起こしたりすることがあり、こういった場合の過失は否定的と言えるでしょう。さらに、術後元気に回復した患者さんが、心筋梗塞や肺塞栓といった直接手術手技と関係しない合併症によって突然死することもあり、こうした場合は「医療事故」とは定義できないと思います。

2. 医療訴訟について

 これまで法的な概念としての「過失」は医療倫理学的な判断とは微妙に異なってきました。しかし最近の判決を見ると、「予測される不慮の結果を回避する義務」をかなり厳しく追及する傾向にあり、結果的に医療倫理が重視されてきているようです(法が意図的にそうしているのかは不明ですが)。

 最近の民事の最高裁判決に以下のようなものがあります(法律雑誌「ジュリスト」2001年1199号より)。ある患者さんが、上腹部痛、みぞおちの痛みを主に訴えて救急外来を受診しました。担当医師は経過を聞き、腹部を触ってみたり、全身状態を見たりして、まず第一に「急性膵炎」を疑いました。そして次に「狭心症」を疑いました。結論を先に言うと、この時患者さんは狭心症から心筋梗塞になりかかっており重篤な状態でした。しかし担当医師は第一に疑った急性膵炎に対する薬の点滴を始めました。患者さんはこの点滴中に重症な不整脈を起こし、容体の急変を迎えて結局亡くなってしまいました。担当医師が診察を始めてから患者さんが急変するまでの時間は15分間でした。遺族は訴えました。一審は原告側の請求を棄却(遺族側敗訴ということ)。原告は控訴。そして控訴審は原告の訴えを概ね認めたため(遺族側勝訴ということ)、医師側が上告。最高裁は上告棄却、控訴審判決を認めました(遺族勝訴)。

 一昔前なら以下のように判断されているかと思われます。仮に担当医師が心筋梗塞を第一に疑い、その処置を始めていたとしても、わずか15分で急変していることから患者さんの死亡は避けられなかった可能性が高く、つまり医師の誤診と患者さんに生じた損害との間に因果関係が認められず患者側は敗訴となる展開です。しかし臨床的(医療倫理学的)には、この誤診は過失です。なぜなら緊急医療の場においては心筋梗塞などの致死的な疾患を少しでも疑えば、(そうでない可能性が高くても)優先的、迅速的に診断治療されなければならないからです。これが実際、前述の判決で認められたわけです。ただ法的な解釈はもっと複雑で、医療倫理学云々だけではありませんが。いずれにせよ、こうした判決は医師にとって少なからず脅威であり、法的プレッシャーは厳しいものだと言わざるを得ません。 

 一方でそれらの傾向は、患者さん側には朗報に聞こえます。しかし法的な厳格化は、医療の取り組みに対する医療者側の消極化にもつながり、またインフォームド・コンセントが医師の自己防衛のための形式と化していく原因であるようにも思えます。

 心臓外科医に限って言えばプロとしての崇高な職人意識を持っていれば、自ずと倫理感覚も高まってくるはずです。幸いなことに今の日本の医療制度の元では、患者さんには外科医を捜す権利が与えられているのです。それを行使しない手はないと思います。